行基プロデュース 庶民の旅を助ける宿泊施設
- 歴史の教科書に登場する「行基*1」というお坊さん、憶えていますか?飛鳥時代から奈良時代に、貴族・庶民を問わず日本に仏教を広めた高僧です。
- 日本最初の「宿」をつくり上げたのは、実はこの行基、といわれています。
- その宿の名は、布施屋*2。
- 日本史に初めて登場した宿。700年代前半のことです。
- 奈良時代は、旅人が増えた*3時代でした。飛鳥時代の混乱を経てようやく国の形が定まり時間に余裕ができたのでしょう、貴族たちはこぞって温泉に出かけたり、山野の美しい風景を楽しんだりするようになったようです。いまで言えば、リゾートツーリズム、といったところでしょうか?
- ですが、この当時、宿泊施設というものはなく、貴族といえども、行く先で頼れる家がなければ、
- 「今夜は野宿ぞよ」
- ということもしばしばだったといいます。
- 一方、税の納付や労役を果たしに都へ向かう庶民も増えました。
- こちらは馬に乗り、従者を伴う貴族とは違います。税として納める重たい産物を担ぎながら往く徒歩の長旅。良くて農耕馬です。ですから旅の道中で、怪我や病気で命を落とす者も少なくなかったのだとか。
*1 行基【ぎょうき】(668〜749)
- 飛鳥時代から奈良時代にかけての法相宗(ほっそうしゅう/中国の唐時代創始の大乗仏教宗派のひとつ)の仏教僧。朝廷が民衆への直接布教を禁じていた当時、禁を破って広く仏教を説き、後に聖武天皇の心をも動かし、東大寺の大仏建立の実質的責任者となるほど影響力を持った。布施屋の他にも橋や道路、新田開発などの社会事業に携わった。
*2 布施屋【ふせや】
- 布施は「施しをすること」から名付けられたとも言われる。熊野詣の旅人のための布施屋があった和歌山県和歌山市には、いまも「布施屋」の地名が残る。読みは「ほしや」。JR和歌山線「布施屋駅」も同様で「ほしや駅」。
*3 奈良時代は、旅人が増えた
- 奈良時代は、一般に710年(和銅3)から794年(延暦13)までの84年間。大化の改新を経て律令政治(律は刑罰・令は一般行政の規定)が確立していく。この時代の租税「租庸調」のうち、「租」は米、「庸」は都での労役あるいはその代替物、「調」は特産物(絹・紙・漆、工芸品など)を納めること。いまで言う地方税の「租」を除く「庸」「調」は都への直接納付のため旅が増え、都と地方をつなぐ道路の整備も大きく進んだ。
ビタミンチャージで、ホッとひと息
- 布施屋は、そんな庶民の旅の窮状を救うためにできた宿でした。宿泊もできる救護イン、あ、いや救護院といった施設だったようで、
- 「眺めの良いお部屋で3泊4日」
- なんて、のんびり逗留というわけにはいきません。怪我が治るまで、疲れが取れるまで滞在できる場を無償で「施し与える」というものでした。
- 行基が生涯でプロデュースした布施屋は畿内*4、つまり大和・山城・河内・和泉・摂津の5か国に9拠点。後に天台宗の開祖・最澄など後進により各地へと広がってゆきます。
- そのひとつ、行基に次いで奈良の東大寺が大和国十市郡に設けた十市布施屋は2千坪を超える広大な敷地内に4棟の施設が建つという大規模なもの。そこに植えられていたのは、
- 桃9本。
栗5本。
柿1本。
梅1本。
梨4本。
ナツメ17本。 - そう、ウェルカムフルーツです。ただし、セルフサービス。
- 「ご自由に捥いで食べてください」
- そんな立て札があったかどうか。
- この他の果樹も合わせて83本もあったそう。歩き疲れてようやっとたどり着いた人々はきっと、こぞって季節の実を口にしたことでしょう。
- 「ちょっと待て!わしらは武蔵国からひと月*5もかけて来たんだが、東海道にもせめて3か所くらいは布施屋つくってくれや!」
- なんて声も、どこかから聞こえてきそうですが……。
*4 畿内【きない】
- 近現代の行政区分では奈良県の全域、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部。五畿・五畿内とも呼ばれた。
*5 武蔵国からひと月
- 現在の首都圏にあたる武蔵国からだと都(平城京)まで30日前後かけての行程。東海道にも後に布施屋はつくられたが、行基の最初の布施屋から100年以上経ってからのことだったとか。
- 非営利の布施屋はやがて廃れますが、時代が進んで平安の世になると、行基が広めた仏教の教えは着実に根付き、人々のあたたかい心を育みます。そして、見知らぬ旅人でも気安く泊める民家が段々と増えてゆきます。
- いわゆる、民泊。
- えッ?民泊?
参考文献/宮本常一著『日本の宿』(八坂書房)
- 宮本常一(みやもと・つねいち)
1907年、山口県周防大島生まれ。日本の民俗学者。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授、日本常民文化研究所所長などを務める。1981年没。同年勲三等瑞宝章授与。
日本の宿、その歴史をひもとく
- illustrations=Noriyuki GOTO