INTERVIEW

2020.04.17
INTERVIEW

中野信子 歴史脳解剖
第五幕:熊本城と頭頂側頭接合部①

熊本の人々から、清正公(せいしょこ)と呼ばれ愛される加藤清正。虎退治のエピソードでも有名な戦国時代の豪傑の実像は、数学的才能のある知的な人物だった......。
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  • Takuji Ishikawa
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  • Hattaro Shinano
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  • 加藤清正は伝承によれば身の丈 六尺三寸、身長190センチの大男でした。片鎌槍を愛用し、朝鮮半島で虎退治をしたという伝説もあります。豊臣秀吉が柴田勝家を倒した賤ヶ岳の戦いで功績をあげて、「賤ヶ岳の七本槍」の一人にも数えられています。勇猛な戦国武将というのが、世に流布している彼のイメージでしょう。
  • けれど実際の清正は武闘派というよりむしろ知性派でした。賤ヶ岳の戦いの論功行賞では三千石の加増を受けていますが、清正自身は七本槍の話をされるのを嫌ったという逸話も残っています。清正は秀吉にとっての重要な戦の大半に参戦していますが、戦場で彼に与えられた役割は、後方で指揮を執る秀吉の守備や支援でした。戦場の花形と言えば一番槍、最前線で敵と戦うことですが、清正にはその種の活躍は求められていなかったようです。秀吉が期待したのは、もっと別な能力でした。
  • 清正が秀吉に初めて仕えたのは天正元年。秀吉が信長から浅井家の旧領を与えられ長浜城の築城を始めた年のことでした。秀吉はこの時期、親類縁者の見込みのある子弟を幾人か召し抱え小姓にしています。清正もその一人で、母親は秀吉の母、大政所(おおまんどころ)の従姉妹と言われています。父親は秀吉の出生地、尾張中村の刀鍛冶でした。
  • 庶民階級出身の秀吉は、ライバルたちのように譜代の家臣を持ちませんでした。織田家中の出世競争を勝ち抜くには、信頼できる家臣が必要です。信長の抜擢で一国一城の主となり、本格的家臣団の形成が急務となった秀吉は、親類縁者の子弟をその信頼できる家臣に育てようとしたのです。
  • 寝返りや裏切りを恐れた戦国武将は、同盟関係を結ぶときにほぼ必ず婚姻や養子縁組によって親戚になっています。子女を人質にする意味合いもあり、それでも裏切りは起きましたが、この時代の人々にとって親戚であることは信頼関係の重要な基盤だったのです。血縁の子弟を手塩にかけて育てるのは、そういう意味で合理的でした。この時、清正は11歳。秀吉に子はありませんでしたから、彼は我が子のように清正の成長を見守っていたのかもしれません。そして清正の資質をかなり早い時期から見極めていたのだと思います。
  • 清正の伝記『清正記』には、彼の華々しい武功が記されていますが、現在ではほとんどが後世の創作と考えられています。清正が命じられた主な仕事は、戦よりも秀吉の直轄地の代官や、新たに征服した領地での戦後処理など、統治と支配に関わる実務でした。
  • 清正が戦に弱かったということではなく、そういう時期に来ていたということでしょう。信長から秀吉が受け継いだ、天下統一事業の最終段階です。少年期から青年期にかけての清正は、信長が安土山に巨大な城郭を築き、秀吉が聚楽第や大坂城を築くのをその目で見ながら育ったわけです。戦はまだもうしばらく続きますが、戦いよりも重要なのはその後の統治であり、国づくりであることを彼は理解していたはずです。
  • 1585年、秀吉が関白に就任すると、清正は主計頭(かずえのかみ)に任じられます。現代で言えば財務省の主計局長というところでしょうか。秀吉が清正に期待したのは、財務官僚としての働きだったのです。清正は期待に応えました。翌年、清正は肥後国の北半分を秀吉から与えられ、隅本城(くまもとじょう)に入ります。この隅本城に大規模な改修を行って完成したのが熊本城。隅本を熊本としたのも清正でした。
  • あわせて読みたい:中野信子 歴史脳解剖 第五幕:熊本城と頭頂側頭接合部②

KIYOMASA KATO

  • 1561-1611年。尾張中村に、刀鍛冶の息子として生まれる。母親は大政所の従姉妹と伝わっている。少年時代に小姓として秀吉に仕え、後に主計頭に任じられる。熊本城を築き、領内の各所で治水事業を行い農業生産性の向上を目指すなど民政にも尽力。

NOBUKO NAKANO

  • 脳科学者。1975年東京都生まれ。 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。東日本国際大学特任教授。『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』(KADOKAWA)、『戦国武将の精神分析』(宝島社新書・共著)など著書多数。

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