INTERVIEW

2020.02.14
INTERVIEW

中野信子 歴史脳解剖
第四幕:明智光秀と脳内物質

信長と出会うまで、無名の存在だった明智光秀は才智を生かし異例の立身出世を遂げ、丹波一国の主となる。領民に慕われた「名君」が「逆臣」となった原因を脳内物質から考察する。
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  • Takuji Ishikawa
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  • Hattaro Shinano
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心しらぬ人は何とも 言はば言へ 身をも惜まじ 名をも惜まじ

  • 歴史ファンに人気の高い信長を裏切った「逆臣」光秀。その評判は、芳しいものとはいえませんで した。近年再評価されているとはいえ、生真面目で陰気な人物、というのがこれまでの一般的な光秀のイメージでしょう。
  • とは言え、京都府から兵庫県にかけての丹波地方では、領民に愛された心優しい名君として、光秀は今も地域の人々の心に残っています。信長の命により光秀は5年がかりで丹波の国を攻略し、亀山城と福知山城を築きます。丹波の人々からすれば侵略者でした。しかも丹波を支配したのは、最晩年の3年間に過ぎません。にもかかわらず、現在もこの地では、光秀を記念する祭りが行われ、彼の善政が語り伝えられています。自らの領国内で、彼が「名君」だったことは間違いなさそうです。その「名君」が、いったいどういう理由で「逆臣」となったのか。
  • 信長に仕える以前の光秀については、身分も含め確かなことがわかっていません。父親が誰か、そ の生年がいつかさえも、歴史家の間で意見が分かれています。
  • 光秀が歴史の表舞台に突如として登場するのは、将軍足利義輝が殺害され、弟の義昭が朝倉義景を頼って越前に逃れた時期のことです。上洛を目指す義昭に、朝倉家を見限り信長に頼るように薦めたのが光秀だったことを示す史料が残っています。信長と義昭の間を仲介したのが、いうなれば光秀の最初の歴史上の功績です。
  • 一説によれば、光秀は信長の正室濃姫の従兄弟でした。濃姫は斎藤道三の娘、光秀は道三の妻の甥だった。その縁で無名の彼が、信長と義昭の間を取り持てたのだという説ですね。
  • いずれにせよ、この功績で光秀は信長に見いだされ、異例の立身出世を遂げます。元亀二年の比叡山焼き討ち後、信長は光秀に延暦寺領の志賀郡を与え築城を許しています。信長との出会いから数年で、光秀は城の主となります。京都と美濃を結ぶ要衝の地に位置する坂本城は、都を勢力下に置くための生命線です。信長はその重要な城を光秀に任せました。
  • その後も光秀は目覚ましい武功をあげ、信長から丹波一国の支配者を任されます。さらには細川藤孝や筒井順慶など周辺の大名を寄騎とし、近畿方面の織田系大名の軍団を束ねる地位に就く。
  • 本能寺の変はその矢先の出来事でした。光秀はなぜ、自分の才能を高く評価し、また信頼してくれていた信長を裏切ったのか。
  •  その理由については、さまざまな説が立てられてきました。信長に苛められた恨みを晴らしたのだという怨恨説、自分が天下の主になろうとしたという野望説、一族の将来に不安を感じたという不安説。背後で糸を引く者がいたとする黒幕説もあれば、信長を殺したのは光秀ではなく、主犯は他にいるという説まであります。
  •  結論は出ていません。動機の問題ですから当然です。正解は光秀に聞いてみるしかない。いや、も しかしたら光秀本人にも真実はわからないかもしれない。

信長的世界の完成を、光秀は望まなかった

  • 新奇探索性という性格類型があります。英語ではnovelty seeking。危険を顧みず、新しくて刺激的なものに引きつけられるという性質のことです。
  • この性質を強く持つ傾向の人が、運と才能に恵まれると、常識では考えられないことを成し遂げることがある。古い因習にとらわれず、新しい技術を積極的に採り入れ、他動的に手を打ち、莫大な利益をあげ、急速に勢力を拡大し、大衆の心をつかみます。そういう人は、今の時代にもたくさんいますよね。
  • 信長はおそらくこの性格類型に当てはまる人でした。ただし、日本という国ではこういう人は生き残り難い。これは遺伝子調査からも明らかにされています。
  • 新奇探索性はドーパミンと関係します。ドーパミンは神経伝達物質で、脳を覚醒させ、快感を与え る。恋愛のドキドキも、やる気が出てわくわくするのも、主にドーパミンがもたらす感覚です。好奇心が湧いている時や、何か新しいことをするときに放出されやすいため、その快楽報酬を求めて、脳は新しいことを追いかける。これが新奇探索性です。
  • ただしその傾向には個人差があり、かなりの割合で遺伝的に決定されているらしいことが明らかにされています。鍵になるのがドーパミン受容体DRD4の遺伝子、その型によって新奇探索性の傾向が強いか弱いかがある程度決まる わけです。そしてここが大切なところなのですが、日本人にはこの新奇探索性傾向の強いタイプの遺伝子を持つ人が他の国民に比べてかなり少ないことが統計的調査でわかっています。欧米人の5分の1から25分の1というデータもある。新奇探索性傾向の強い人は日本では少数派なわけです。
  • リスクを取って新しいことに挑戦する新奇探索性の反対は、保守性です。心配性で、悲観的で、損害を避ける。価値の定まった古い物、伝統的な価値を尊ぶ心もこれにあてはまるでしょう。光秀はたぶんこのタイプの人でした。
  • 二人はその根本で戦略的に正反対だった。信長戦略と光秀戦略の対立が、本能寺の変の真因だった というのが私の見立てです。
  • 新しくて危険で面白い方を選ぶか、堅実で長続きしそうで危険の少ない方を選ぶか。それは教育や 経験より、生まれつきの性格で決まっている可能性がある。だから話し合っても解決しない。
  • 出会った時の二人は、むしろそのタイプの違いに惹かれあったのでしょう。自分にはないものを持つ人に、人は憧れる。戦略の違う人が組織にいれば、組織は強靱になります。信長が急速に勢力を拡大していく過程では、それがうまく機能しました。京都を支配下に置くためにも光秀戦略は役に立った。二人はなりふりかまわず、手段を選ばずに、実を取ったわけです。天下統一は目前でした。その後の日本全体の形を考える段階に来て、二人の戦略が齟齬をきたしたのです。それが天皇の問題なのか、四国の大名の処遇の問題なのか、あるいは他の何かか……それは歴史家の検証を待つとして。
  • これは現代の企業でもよく起きる問題です。大きな目的を持って仕事をしているときに、その仕上 げの段階で会社のトップが仲違いをする。アップル社にも、そういう歴史がありました。
  • 信長への違和感が高まっていたときに、本能寺にほぼ無防備の信長がいて、周囲には自分の軍勢だ けしかいないという千載一遇の機会が到来します。信長がこれ以上大きくなってしまえば、もう倒すチャンスはない。光秀はその好機に、衝動的に飛びついた。信長を倒すこと自体が彼の目的だった。野望ではないと思います。野望なら、光秀のことです、周到な準備をしたはずですが、その形跡が見あたりません。彼はある種の使命感のためにあえて逆臣となった。そう私は想像してしまうのです。

MITSUHIDE AKECHI

  • 不詳―1582年。美濃土岐氏の支流、明智家に生まれると伝えられる。織田信長に抜擢され、比叡山焼き討ちや丹波平定などの武功をあげる。本能寺の変で、信長・信忠親子を討つが、弔い合戦を掲げる豊臣秀吉との山﨑の戦いで敗北。落ち武者狩りで深手を負い自刃する。

NOBUKO NAKANO

  • 脳科学者。1975年東京都生まれ。 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。東日本国際大学特任教授。『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』(KADOKAWA)、『戦国武将の精神分析』(宝島社新書・共著)など著書多数。

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