- 19歳でモスクワに留学し、3年半学んだ後、2017年、23歳の時にワルシャワのフレデリック・ショパン国立音楽大学に移りました。今は同大学に籍を置きながら、ウィーンで湯浅勇治先生に指揮の指導をしていただいています。
- ピアニストは様々な音楽家の曲をまんべんなく弾けなければならないというのが僕の考え。そして、作品を自分のものにするには、その曲が生まれた土地に滞在し、作曲家がどんな空気を感じ、どんな言葉を使い、どんな香りをかいでいたかを体感する必要もあると思っています。モダンで西洋的な空間で点(た)てたお茶と、伝統的な日本家屋でいただくお茶では味わいが違いますよね。それと同じで、そのカルチャーが生まれた場所を、肌で感じることが大切だと思います。
- だから、僕ら音楽家は一生旅をするのです。モーツァルトは「旅をしない音楽家は不幸だ」という言葉を残しましたが、そのとおり。語学を習得し、文化や暮らしになじむには、同じ土地に3年滞在するのが理想ではないかと思っていますが、コンサートなどで短期間滞在するだけでも違うはずです。
- 多くの国や街を訪れ、様々な人と語らい、土地のものを食べ、ホテルで休む。「ここではこれを大事にしているんだ」と、文化や習慣に触れることが自分の引き出しになる。引き出しをどれだけたくさん持っているかは、音楽家にとってとても大事なこと。音楽をどう解釈し、表現するかに関わってきますから。
セルリアンタワー東急ホテルの高層階に位置するコーナースイートにて。眼下に広がる景色を目にして、「この眺望、圧巻ですね!贅沢な時間が過ごせそうです」。
明日死んでも悔いがないという気持ちで、ピアノに向き合う
- モスクワ留学の後、ウィーンやニューヨークで勉強するという選択肢もありましたが、結局ポーランドのワルシャワに向かいました。理由のひとつはショパン国際ピアノコンクール。そこで結果を出すには、ショパンの祖国でじっくり腰を据えて学ぶ必要があると考えたからです。
- ’20年に開催のショパンコンクールに出場するつもりでしたが、新型コロナの影響で’21年秋に延期されてしまいました。でも、そのおかげでたっぷり4年かけてコンクールに臨むことができた。コンクールで弾く曲にワルシャワの聴衆を魅了できる作品を選んだり、ショパンの生きた時代や文化をイメージしながら曲を解釈したりと、現地で暮らした意義は存分に発揮できたと思います。
- ......ただ、メンタルは、もうめちゃめちゃでした(苦笑)。過度な緊張とストレスで、コートのジッパーが首に当たるだけで、もどしてしまうくらい。ファイナルのステージも、シャツのボタンを上から2つ目まで開けて臨んだんですよ。本当はカッコよくネクタイを締めて演奏するつもりだったのに(笑)。
- 強心臓で緊張と無縁だった僕がそんな状態になってしまったのは、背負っているものが大きかったからかもしれません。日本のクラシック業界では名前が知られるようになってきていたので、コンクール参加はある意味リスキー。結果が出なければ、ファンやスポンサーの皆さんを「自分は正しい耳を持っていなかった」と、がっかりさせることになり兼ねません。応援してくださっている方々をそんな気持ちには絶対にさせたくない。それに「世界を舞台に活躍する」ことを目的に立ち上げたオーケストラには、僕を信じてついてきてくれたメンバーがたくさんいます。彼らの期待に応えるためにも勝ちたかったんです。
- 僕はすごく負けず嫌いで、人生後悔したくないという気持ちが人一倍強い。明日死んでも悔いがないよう、目の前にチャンスがあるなら挑戦したいし、やるからには徹底的に準備をして全身全霊で取り組む。今日までそんな風に生きてきました。髪をオールバックにして後ろで結わえる“サムライヘア”にしたのも、ヨーロッパの聴衆に「サムライピアニスト」として興味を持ってもらうため。こう見えても頭の中では、いろいろ考えているんですよ(笑)。
5年に一度開催の「ショパン国際ピアノコンクール」。第18回(昨年開催)で2位入賞。
クラシック業界初の試みも自分にとっては自然なこと
- ’21年5月、ジャパン・ナショナル・オーケストラ(’18年に創設したMLMダブル・カルテットが前身)を、奈良県奈良市に拠点を置く株式会社として設立しました。日本の管弦楽団初の“株式会社”ですが、なぜそうしたかというと、音楽家を社員として雇用し、給料を支払いながら、音楽活動に打ちこんでもらうためです。
- 本拠地を奈良にした理由は、スポンサーのDMG森精機の本社が奈良市にあり、応援してくれる方々がいて環境が整っているなどいろいろありますが、外国人に好まれる場所というのも大きかったですね。海外での活動も視野に入れているので、いずれ海外から奈良にコンサートを聴きにお客様が訪れるでしょう。奈良は歴史や自然が豊かなので、観光も楽しんでいただけますから。メンバーも国際色豊かにしていきたいので、彼らにとっても嬉しい場所だと思います。近い将来、ここに音楽の専門学校を作る計画もあるんですよ。
- 僕はマネジメント会社を経営していて、’19年にはレーベル「NOVA Record」も立ち上げました。’20年4月には無観客によるオンライン配信の演奏会を開催し、また、noteで音源を有料制で発表したり、オンラインサロン「Solistiade」でプロの演奏家によるレッスンを配信したりもしています。
- それを「新しい」とか「画期的」と評されることもありますが、僕にとっては当たり前のこと。ベートーヴェンもモーツアルトも曲を作り、パトロンを探し、自分で演奏する場を設けて収入を得ていました。それをやっているだけのことです。コロナ禍で多くのコンサートが中止になり、収入減に悩む音楽家は少なくなかったようです。でも、今はいろいろなツールが出ているので、音楽家が自ら発信し、お金を稼ぐ方法はたくさんある。それを活用しないなんてもったいない。今後は僕みたいに自分で会社を立ち上げる音楽家が増えると思います。
一音で聴衆を感動させるピアニストになれたら最強
- ショパンコンクール以降、「反田さんの演奏で救われました」というメッセージをいただくことや、コンサートに来場した子どもから、「音楽家を目指します」という言葉を聞くことが増えました。14歳の時、「人に夢を与えられる音楽家に」と願ったことが少しずつ叶い始めているのかな。だとしたら、ここまで無我夢中でやってきて本当によかった。
- まだまだやりたいことはたくさんあります。人生100年でも足りるかなというくらい(笑)。自分が60歳、70歳になった時に、どんな音を出しているかもすごく興味がありますしね。80歳になった時にポンッ!と鍵盤を鳴らしただけで、「こんな人生を歩んできたんだな」と聴衆を感動させられるようなピアニストになっていたら最強ですね。
- そのためにも音楽を共有できる仲間をたくさんつくり、いろいろな経験をし、旅をして自分の引き出しを増やしていきたいと思います。
“「夢を与えられる音楽家」のスタートラインに立ったところです”
- styling=Tsukasa Miyazaki
hair&make-up=AKANE
衣装協力/麻布テーラー(Y &Mプレスルーム)03-3401-5788
KYOHEI SORITA
- 1994年生まれ。2012年、18歳で日本音楽コンクールで1位に。’14年、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院に首席で入学。’17年から、フレデリック・ショパン国立音楽大学に在籍。’15年に「リスト」でメジャーCDデビューを果たす。’21年、第18回ショパン国際ピアノコンクール2位入賞。マネジメント会社の経営やオンラインサロンの主催、ジャパン・ナショナル・オーケストラ設立など幅広く活躍する。今夏、自身初の著書「終止符のない人生(仮)」が発売。