- 山下泰裕は大学2年秋の判定負けを最後に、引退するまで203回の勝利を重ね、一度も負けることはなかった。外国人選手と119回戦ったがただの一人も彼を破れなかった。アスリートとしてなしとげたことを表現するには、偉業という言葉さえ物足りない。けれどその顔は、写真家が思わず「やさしい顔ですね」と呟かずにはいられぬほどに柔和だった。
ザ・キャピトルホテル 東急の「ザ・キャピトルスイート」にて。4月にリニューアルされたこの部屋からは、東京の街をパノラマビューで見渡せる。ホテルのコンセプトである「不易流行」の精神を核とした上質で心地よい和モダンの空間。
- やさしい顔のほうが好きです。いまから35年前、選手の頃は、畳の上に立ったらお前の目つきは殺気を帯びているとよく言われましたから。
- 私が学生時代に負けた相手は、そのほとんどが7歳から10歳も年上の世界チャンピオンや、金メダリストだった。普通なら高校生が戦わないような相手だった。私はたくさんの同世代の人たちの夢を、打ち砕いてきたんです。だれかを倒して、だれかを破って、自分の夢を達成するのはやりすぎるほどやってきたから、戦うのはもういいです。できるなら、みんなと一緒に夢を追いかけたい。もしも戦うのなら大きなものを相手に戦いたい、みんなの夢のために。だれも傷つけないような、そういう大きな夢にチャレンジしたい。
日本一不幸だった男が、世界一幸せだった理由
- 私の尊敬する恩師は、私が30代半ばの頃亡くなりました。別れ際に 先生は私に言葉を遺しました。
- 「僕が君を応援してきたのは、試合で勝ってほしいだけではない。君には、日本で生まれ育った柔道を通して、世界の若人と友好親善を深めてもらいたい。いや、それだけじゃない。君には将来、スポーツを通して世界平和に貢献する人間になってほしい。だから君を応援してきた。僕の気持ちを、わかってくれるか」
- これが東海大学の創設者、松前重義博士と最後に交わした会話です。
- 幼い頃から、戦いの場に真っ先に飛び出すような子どもでした。外国人に勝ちたいという気持ちも、人一倍強かったと思います。けれどそういう人との出会いや経験を通じ、いろいろなことを学ぶうちに、外国の選手も敵ではないんだと、同じ柔道をする仲間だということに、ようやく気づくようになりました。
- 1980年のモスクワオリンピックを日本がボイコットして、オリンピ ック出場の夢を絶たれたときのことです。選手にとっては残酷なその決定が下された翌日、私は試合で脚を骨折しました。静まり返った会場で腓骨の折れる音が、二階の観客席まで聞こえたそうです。翌日の新聞各紙の一面記事で、日本一不運な男と書かれました。
- 出場はかなわなかったが、私はオリンピックの観戦にモスクワに飛びました。初日の試合会場、一階は選手しか入れないから、私は二階の観客席にいたのですが、私の姿を見たその日の出場選手たちが寄ってきて口々に声をかけてくれた。「ヤマシタ、大丈夫か脚は」「また柔道やれるんだろう」「がんばれ」と。
- あれはうれしかった。敵じゃないんです。敵であるとしたら、畳の上に立っているときだけ。お互いにどれだけ努力をしているか。どれだけ節制をして、どれだけの試練を乗り越えて来ているかわかっているから。やっぱり仲間だったんだなあとわかったその瞬間から8日間、最後の試合が終わるまで、私は声を限りに試合をする彼らに声援を送っていた。ほんとは俺もここで試合をするはずだったんだなんてことは、一瞬たりとも頭をよぎらなかった。ただ自分の夢に向かって全力を尽くす彼らの姿に感動していました。
恐れることなんて何もない。ただ自分のために戦ってほしい
- 「君は大変だなあ。負けるわけにはいかないから」と、選手の頃はよく言われました。私は決まってこう答えました。「なんで私が負けるわけにはいかないんですか。勝手に決めないでください。勝つのは簡単じゃないですよ」と。いや、わかってるんです。私に同情して、大変だねと応援してくださっているのは。
- その次のロサンゼルスオリンピックも、私が日の丸を背負い、負けられないという気持ちでのぞんだと皆さん思っているかもしれない。そうじゃないんです。私はただ勝ちたかった。自分の夢をかなえたかった。
ロサンゼルスオリンピック無差別級で優勝し、表彰台に上る山下。軸足の右足に肉離れを起こしたまま、エジプトの強敵モハメド・ラシュワンとの激闘のすえに手にした金メダルだった。(写真:朝日新聞/ゲッティ)
- 自分の意志が体を動かすんです。勝ちたいという強い気持ちがなかったら、どんなに鍛えた体でも木偶の坊です。100mを10秒で走れたとしても、速く走りたいという気持ちがなかったら走れない。仕事でもそうだと思います。自分の意志が自分の行動を引っ張っているんだから。勝ちたいという強い気持ちがなければ、5分の1も10分の1も力を発揮できない。負けられないとか、失敗は許されないとか、負けたら申し訳ないとか思ったら、力を出せっこない。
- だから日本代表の監督だった時代は、報道の人に「大変ですね」と選手にいうのをやめてくれと言ってました。何も大変じゃないんです。自分の努力が実り、日本でたった一人その階級で夢に挑戦できるんです。大変じゃない。幸せな人間だと。あなた方の言うことはおかしい。「すばらしいですね。どうですか、自分の夢にチャレンジできるいまの心境は?」と聞くべきなのに。
- 選手には、負けたって失うものなんて何もないんだと言います。夢に挑戦し、たとえ初戦で敗れても、人生学べることが山ほどある。紙一重で出られなかった選手に比べたら、 あの舞台を踏むだけでもぜんぜん違うんです。だから恐れることなんか何もないんだよ、と。
- 日本オリンピック委員会の選手強化本部長として、2020年東京オリンピックで金メダル30個という目標を掲げました。過去最高は16個。簡単な目標ではありません。
- オリンピック・パラリンピックの代表選手たちには、おのれを信じ、最後の最後まで自分の夢に挑戦してほしい。自分のために戦ってほしい。 あの晴れ舞台で、生き生きと輝く姿を見せてもらいたい。それができれば、結果は自然についてくる。
- そして皆さんには、日本の選手たちを応援するだけではなく、世界の選手たちにも熱いエールを送ることを忘れないでいただきたい。
- 4年に1回のオリンピックは、多くの選手にとっては一生に1回なんです。自分のすべてをかけてチャレンジするに値するのがオリンピック。 私たちの役目は、選手たちが夢に思いきり挑戦できる環境を、各競技団体とつくっていくことです。ひたむきに戦う選手の姿を通し、皆さんに夢と感動、希望と誇りを感じてもらえるオリンピックにするべく、私にできることはすべてやりきるつもりです。それが現在の私の戦いです。
- 来年は熱い夏になりますよ。
たくさんの人の夢を打ち砕いてきた。
いまはみんなで大きな夢を追いかけたい
YASUHIRO YAMASHITA
- 1957年熊本県生まれ。小学3年生で、地元の柔道場に入門。高校生にしてフランス国際柔道大会で優勝し怪童と呼ばれる。全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、ロサンゼルスオリンピック金メダルなど数々の偉業をなしとげて28歳の若さで現役を引退。'84年国民栄誉賞受賞。現在は東海大学副学長、全日本柔道連盟会長、日本オリンピック委員会常務理事・選手強化本部長などの要職を兼務。